どーせなら隣同士の方が気楽だったのによォ、と頬杖をついてぼやく弟に、気色悪いことを抜かすなとその友人である金髪の青年が言った。綺麗な顔を盛大にしかめ、「お前みたいな動くだけでうるさい奴が隣だなんて冗談じゃあないぜ」と付け加えた金髪の青年に、動くだけでうるさい男と認定されてしまった青年、ジョセフ・ジョースターの兄―荒木ハイツ管理人ジョナサン・ジョースターは苦笑を浮かべた。

「そんなぁン、シーザーちゃんちょっと冷たいんじゃあないのォ?!折角この俺の紹介で格安家賃で住めるところ提供してやったっつーのにさ!」
「提供してくれているのはお前じゃあなくてジョナサンさんだ、スカタン」
「にゃにおぅ?!」
「まぁまぁ二人とも、それじゃあ書類の手続きはこれで終わりだから、あとは荷物を運んで終わりだね」

相変わらず仲がいいなぁと呑気な感想を抱きながら、目の前でじゃれあっている(ようにジョナサンには見える)二人にジョナサンは付け加えた。

「あ、そうそう。二人の部屋の間にある部屋なんだけどね」
「俺たちが下見しに来た時には確か留守だったよな?つぅかいつ行っても留守だったよーな気がする」
「彼女忙しいからねぇ。先にちゃんと紹介したかったんだけど、どうも日程が合わなくて……」
「彼女?ということは、女の子ですか?」

ため息交じりのジョナサンの言葉に、金髪の青年、シーザー・A・ツェペリは喰い付いた。
そうだよ、とても仕事熱心ないい子なんだ、と微笑むジョナサンにシーザーはさらに詳しい情報を、と喰い付いた。隣でまた始まったぜとでも言いたげな呆れ顔のジョセフはスルーして、シーザーはジョナサンの話す隣人についての情報を頭に叩き込むのであった。


自分の部屋と同じ淡いクリーム色のドア横にあるインターホンを鳴らすと、中で人の動く気配がした。シーザーは内心でやっとか、と安堵の息をもらす。

入居の手続きを終え、引っ越しも済んで既に四日は経過していた。それなのにほんの数歩しか離れていない隣の部屋の住人と、シーザーはおろかジョセフもまだ顔を合わせたことがなかった。どうやらこの隣人はシーザーやジョセフとはかなり違う生活サイクルの持ち主らしい。

ジョナサンからは事前に二人が入居してくることは伝えてあるから、と言われたものの、きちんと会って是非挨拶をするのが隣人としての礼儀というものだ、とシーザーは思う。とりわけその隣人が、自分と同じ年頃の若い女性とあらば猶更だ。

挨拶用にと買い揃えた、真っ赤な薔薇の花束と一本のロゼ・ワイン、それからワインによく合うチーズまで腕に抱えてシーザーはドアが開くのを待った。
幸い今日はジョセフがいない。確か大学時代にノリで参加した飲み会サークルの仲間と久しぶりに飲みに行くのだと言っていた気がする。

ガチャリ、とドアノブが回った。それを見てシーザーは軽く深呼吸をする。何事もまず第一印象が肝心だ。必要以上に仲良くなる必要はないが、これから隣同士で生活する以上、変なトラブルを起こすのは避けたい。

「……あの、どちら様ですか?」

チェーンをかけたままのドアの隙間から女性の声がした。一人暮らしの女性なら当然の対応である。ジョナサンの言うとおり、中々しっかりしたお嬢さんのようだ。
シーザーは彼の魅力を最大限に引き出す甘い笑みを作ると、ドアの隙間から見えるように花束から薔薇を一本抜き出して差し出した。

「驚かせてしまってすみません、シニョリーナ。四日前に隣に越してきました、シーザー・アントニオ・ツェペリといいます。ご挨拶が遅れて申し訳ありません」

よかったらこのチェーンを外して貴女の可愛らしい顔を見せてはくれませんか?と付け足しながらシーザーはドアを支える彼女の手に抜きだした薔薇を握らせる。

「ああ、ジョースターさんの言ってた……はい、ちょっと待ってください。今開けます」

どこか淡々とした口調で、彼女は一旦ドアを閉めた。チェーンを外す音を聞きながら、さらりと甘い言葉と甘い笑顔をスルーされたシーザーは内心で軽く動揺していた。
今までの人生で数多の女性に同じような言葉を贈ってきたが、ここまで華麗にスルーされたのは初めてだった。その気のない女性でも何しかしらのリアクションはあったのに、という彼の心の葛藤を余所にクリーム色のドアが開かれる。

同時に、故郷で親しんだ懐かしい香りがふわりと鼻孔をくすぐった。

「初めまして、です。こちらこそご挨拶が遅れてしまって……あ、これ、どうもありがとうございます」

片手でドアノブを持ち、ぺこりと頭を下げるともう片方の手に持った、先ほどシーザーの握らせた薔薇を軽く持ち上げて彼女は言った。
淡いオレンジ色の簡素なワンピースとカーディガンに身を包み、足元はつっかけ用らしいサンダル。

そんな井出達だというのに目の前の彼女、はシーザーの目に、彼には馴染みの薄い清楚な女性に映った。話にだけ聞いていた、ジャッポネーゼに古くから伝わるといわれる『大和撫子』。

「え、いや……それ一本だけじゃなくて、その、これも、受け取ってくれると、嬉しいんだけど」

手渡した一本の薔薇だけが挨拶の品だとでもいうようなの口調に、シーザーは慌てて抱えていた薔薇の花束を差し出した。
いつも女性に花束を贈るときはもっとスマートにできるのに。また内心で葛藤するシーザーの様子なぞ気にしていないような気軽い調子で、「ありがとうございます」とは差し出された花束を受け取った。

「……」

まだ何かあるのか、とでも言いたげな視線がシーザーに突き刺さる。

おかしい。

彼の予定では花束を渡した時点で目の前の彼女はふんわりとその頬を桃色に染め、はにかんだ笑顔を浮かべているはずだった。そしておもむろに取り出したワインとチーズを差し出して、よければ二人の出会いを祝して乾杯なんてどう?とか言って二人でワイングラスを傾けている予定だったのだ。

と、計画していた流れを思い出したところでシーザーは、それからこれも、と慌てて失念していたワインのボトルとチーズの入った袋も差し出した。
完全にペースが乱されている。くっ、とに見えない位置で奥歯を噛みしめる。
だが、目の前の彼女はチーズとワインのボトルを見た途端、目の色を変えた。

「ロゼですね。こっちはモッツァレラとリコッタですか?さすが、本場の方はワインに合うチーズをよくご存じなんですね。あ、それにこのチーズ、駅前の専門店の!私もこの店のチーズ好きなんです、でも高くってなかなか手が出ないんですよね。嬉しい、ありがとうございます」

薔薇の花束を渡した時よりも明らかに高いテンションでワインボトルとチーズの袋を交互に見、まくしたてる彼女。先ほどまでのどこか固い表情が一気に緩み、口元には微かな笑みが乗っている。
急に饒舌になったに、シーザーは一瞬呆けた。そして彼女が動くたびに、またふわりと香った懐かしい匂いに気づいてシーザーは思わずまじまじと頭一つ分は低い位置にあるを見る。

「そうだ、ちょっと待ってください」

そんなシーザーの視線に気づいていないは、くるりと身を翻すと部屋の中へと戻っていく。声をかけるタイミングを完全に見失ったシーザーは、大人しく言われた通りその場で待った。
待っている間、先ほどからふわふわと辺りに漂う懐かしい香りの正体を思い出そうと記憶を探ってみる。

どこか酸っぱく、でもほのかに甘い、太陽のような香り。故郷イタリアで毎日嗅いでいた、そう、あれはまだ母が生きていた頃によく香っていた。

もう少しで思い出せる、喉下まで出かかっている記憶の糸を手繰り寄せていると、香りが一段と強くなった。

「昨日の残り物で申し訳ないんですけど」

小さな手提げ袋に小ぶりのタッパーを入れながらが戻ってくる。どうやらタッパーは一つだけではないらしい。ちらっと見えたのは赤。そしてまたあの馨しい香り。

「……トマト?」
「え?ああ、そうです。トマトのブルスケッタ。こっちにパン、こっちにソースが入ってます。本場の方に差し上げるのはちょっと緊張しますけど、よかったらどうぞ」

手提げ袋を差し出しながら、は言う。懐かしい香りの正体はトマトだった。
そういえばジョナサンが、彼女は駅前のイタリアンレストランでシェフをしているんだよ、と言っていたのを思い出す。
まさか故郷を遠く離れた日本で、こんなにも懐かしい香りに出会えるなんて。

「……?ツェペリさん?」
「――あ、ああ。ありが、とう」

訝しげに姓を呼ばれてシーザーは喉の奥から絞り出すように言葉を紡ぐ。が首を傾げると、またトマトの香りが強くシーザーを刺激する。

「……トマト、好きなのか?」
「は?」
「あ、いや、ごめん!そうじゃなくて、君からなんだかトマトの香りがするなと思って!昔よく嗅いでた匂いだったから、ちょっと懐かしくなってって俺は何を」
「好きですよ」
「えっ」
「トマト」

好きです。そう言っては、はにかんだような笑顔を浮かべた。
それは、シーザーが当初、薔薇の花束を渡した時に彼女が見せてくれるだろうと期待していた、まさにどんぴしゃりな笑顔だった。

 

 

 

自分は一目惚れなぞしないだろう、シーザーはずっとそう思っていた。

愁いを帯びた瞳の女性がいれば、飛んでいってその愁いを取り除きたいと思うし、泣いている女の子がいればその涙を指先で拭ってやりたいと思う。
特定の誰かだけのためにそんなことをしたいとは思ったことがなかった。その時その時で相手はくるくる変わる。
けれどくるくる変わる相手一人一人にいい加減な気持ちを抱いたことはない。いつだって本気だった。長続きしなかっただけで。

「シーザー?」

名前を呼ばれて声のした方を振り向く。シンプルなデイバックを肩に提げ、驚いたような顔をしてまばらな人の群れの中、突っ立っているがいた。時刻は既に午後十一時をとっくに周り、午前に突入しようかとしていた。

お疲れ、と笑いながら彼女の元へと歩み寄る。背も高く、ブロンドにオリーブグリーンの瞳のシーザーは非常に目立つ。道行く女性が次々と振り向いて彼を熱い眼差しで見るが、シーザーはそんな視線には気づかない。真っ直ぐにの所まで行くと、肩にかかったデイバッグをするりと浚う。

「女性が一人でこんな時間に出歩くもんじゃあないぜ、って前に言っただろう?」
「仕込みが長引いちゃったの。というか前から終業時間はこんなもんでした」
「……やっぱり勤務時間をどうにかしてもらうように交渉するしかないか」
「心配性なんだから……シーザー、私のお母さんみたい」
「おいおい、そこはせめて恋人って言ってほしいんだけどな」

はいはいそうですね、でも私とシーザーじゃあ釣り合わないよ、などと暢気に笑う彼女に、シーザーは心の中でヘッドロックをぶちかまされてひっそりとへこんだ。
あの、彼にとっては衝撃的な出会いから一年が過ぎようとしている。

ツェペリさん、からシーザー、へと呼び方が変わるのに数か月を要し、さらに敬語が外れるまでさらに数か月かかった。
想像以上にガードが固いのか、はたまたもともとの性格なのか、シーザーは後者だと睨んでいるがともかく。


「うん?」

さん、から始まり、、と名前を呼び捨てるのに数か月。ふとした時に笑顔を見れるようになるのにさらに数か月。
今は、名前を呼べば口元に薄らと笑みを乗せて返事をしてくれる。

「今夜はの部屋でワインが飲みたいな」
「ワイン持参でね。おつまみくらいなら作ってあげる」
「そっちがメインだよ」

の料理が食べたいんだ、と甘く囁いても彼女からは「いつも店で食べてるじゃない」という呆れたような返事。
それでも、ぶらぶらと揺れる彼女の手をさり気なく握っても、は振り払うようなことはしない。
何も言わず手を握れば、軽く握り返してくる。嫌がる様子も全くない、なのに一向になびく様子がない。そもそもなびいているのかさえよくわからない。

「前にくれた、トマトのブルスケッタがいいな」
「シーザーあれ好きだよね。そんなに美味しかった?」
「ああ、もちろん」

優しく笑んだ男の胸の内を、彼女ははたして知っているのか。じゃあ今日もトマト尽くしだね、と張り切るは、シーザーの心を一撃で打ち抜いたはにかんだ笑顔を彼に向けるのだった。

 大和撫子、トマト日和

 煮るなり焼くなりお好きにどうぞ!/梨紗